裏山の樹園地の中で点々と天道生え(自然に種が落ちて芽が出たもの)の菜の花が咲き始めた。ここ数日の陽光で早めに咲いたものと思われる。そう言えば、南国鹿児島の指宿の菜の花マラソンがそろそろだろう。指宿には何度か出かけたことがあるが退職の年に職場仲間が送別旅行を企画してくれ指宿のホテルに宿泊したのだが菜の花ウオーク、菜の花マラソンの参加者が砂風呂で一緒だったのを記憶している。
さらに遠い日、ユースホステルという安宿を利用して薩摩今和泉という駅から池田湖、開聞岳を経て指宿まで徒歩旅行をやったことがある。薩摩富士と呼ばれる「開聞岳」の山頂から真下に吸い込まれるよぷに見える海を眺め感動した記憶が残っている。ちょうど季節は今頃で懐かしい風情である。朝晩はまだまだ寒いが日中の陽射しは春遠からじを感じる。
さらに遠い日、ユースホステルという安宿を利用して薩摩今和泉という駅から池田湖、開聞岳を経て指宿まで徒歩旅行をやったことがある。薩摩富士と呼ばれる「開聞岳」の山頂から真下に吸い込まれるよぷに見える海を眺め感動した記憶が残っている。ちょうど季節は今頃で懐かしい風情である。朝晩はまだまだ寒いが日中の陽射しは春遠からじを感じる。
裏山で蠟梅(ロウバイ)が咲いている。早生系はもうとっくに盛りを過ぎているのだが晩生の品種である。蠟梅の種類はいくつかあり「素心蠟梅」「満月蠟梅」「和蠟梅」などである。蠟梅は1,2月の花の少ない時期に咲くのでひときわ目立つ。付近を通るとかすかに芳香がする。別名「唐梅」などとも呼ばれる。はなびらを見ると透き通った黄色でロウ細工のように見えることからロウバイと名づけられたのかも知れない。この蠟梅の枝には最近メジロやジョウビタキ、アカガラ、コゲラなどの小鳥たちがやって来て盛んに細枝を啄んでいる。
昨日の早朝、新聞の地方版のお悔やみ欄で旧知の方の名前を見付けた。もしや同姓同名では?と思って電話で尋ねると土日祭日と連休が続いて掲載が4,5日遅れたらしい。お葬式はすでに済んでいたがさっそくお悔みに出かけた。高齢の奥さんが残っておられ「もうこの年ですからいろいろ面倒なことは出来ませんので皆さんにはお知らせしませんでした。」いうことだった。
最近はこのように簡素な葬儀形式が多くなっている。考えてみると残された人たちの負担を軽くするためには良い傾向かも知れない。
一般に葬儀の費用は200~300万円かかると言われている。宗教学者のS氏の著書によると最近は「0葬」(ゼロソウ)というのが増えて来たという。近親者の死後、葬式はせずにそのまま火葬場に直行、中にはお骨も家に持ち帰らずお墓も設けない人が出始めているという。これも時代の流れなのだろう。
そう言えば、身近な周囲でもお墓終いや伝来のお墓を潰しお寺の納骨堂へ収めるという方が増えている。家という制度が崩壊しつつあり子供の数も激減、長男長女が主流の時代ではお互いの先祖のお墓を維持して行くのが負担になっているのだろう。ご時世とはいえいろいろ考えさせられる時代になった。
昨日の早朝、新聞の地方版のお悔やみ欄で旧知の方の名前を見付けた。もしや同姓同名では?と思って電話で尋ねると土日祭日と連休が続いて掲載が4,5日遅れたらしい。お葬式はすでに済んでいたがさっそくお悔みに出かけた。高齢の奥さんが残っておられ「もうこの年ですからいろいろ面倒なことは出来ませんので皆さんにはお知らせしませんでした。」いうことだった。
最近はこのように簡素な葬儀形式が多くなっている。考えてみると残された人たちの負担を軽くするためには良い傾向かも知れない。
一般に葬儀の費用は200~300万円かかると言われている。宗教学者のS氏の著書によると最近は「0葬」(ゼロソウ)というのが増えて来たという。近親者の死後、葬式はせずにそのまま火葬場に直行、中にはお骨も家に持ち帰らずお墓も設けない人が出始めているという。これも時代の流れなのだろう。
そう言えば、身近な周囲でもお墓終いや伝来のお墓を潰しお寺の納骨堂へ収めるという方が増えている。家という制度が崩壊しつつあり子供の数も激減、長男長女が主流の時代ではお互いの先祖のお墓を維持して行くのが負担になっているのだろう。ご時世とはいえいろいろ考えさせられる時代になった。
昨年は膝関節、腰を痛めほぼ1年間を棒に振った。若い頃には考えられなかったような残念な事態である。これも加齢ゆえの結果だろう。今年はこそは体力づくりに心がけ健康元年にしたいとお正月は例年の三社参りとは別に数箇所初詣に出かけた。困った時の神頼みである。
鬼塚は家から5kmほどの距離で隣町にある。鬼塚は遠い昔鬼の首の部分が埋められているという伝説があった。昭和20年代後半までは海の真ん中にある「浮島」で干潮時には砂州を通って陸地から歩いて行けた。昭和30年代になって遠浅の海岸線を埋め立て農地にしようと県営事業で付近一帯で干拓事業が進められた。地区面積は156ha、水田を主体とした農地面積は約100ha、当時としては1枚の区画が極めて大規模で1~1.8haであった。ここに公募で18戸の農家が入植し営農を始めたのである。
現在も干拓地の一角に[鬼塚]]が昔のままの姿をとどめている。干拓事業が一段落した後年そこいら一帯はアグリパーク(農業公園)として整備された。今はマイカーで簡単に祠付近まで行ける。かっての浮島は当時のままの小社祠と神石がある。毎年何人かが初詣に訪れるのか?お賽銭が祠の前に置かれてあった。鬼塚から豊前方面の山々を遠望すると求菩提山(鬼の臓体部分はこの山に埋められたという言い伝えも残っている)、経読岳、犬ケ岳がくっきりと見える。遠い昔海岸の潮の満ち引きを眺めながら小学校の遠足で訪ねた際の記憶がかすかに残っている。もうかれこれ半世紀以上も前の事である。
鬼塚は家から5kmほどの距離で隣町にある。鬼塚は遠い昔鬼の首の部分が埋められているという伝説があった。昭和20年代後半までは海の真ん中にある「浮島」で干潮時には砂州を通って陸地から歩いて行けた。昭和30年代になって遠浅の海岸線を埋め立て農地にしようと県営事業で付近一帯で干拓事業が進められた。地区面積は156ha、水田を主体とした農地面積は約100ha、当時としては1枚の区画が極めて大規模で1~1.8haであった。ここに公募で18戸の農家が入植し営農を始めたのである。
現在も干拓地の一角に[鬼塚]]が昔のままの姿をとどめている。干拓事業が一段落した後年そこいら一帯はアグリパーク(農業公園)として整備された。今はマイカーで簡単に祠付近まで行ける。かっての浮島は当時のままの小社祠と神石がある。毎年何人かが初詣に訪れるのか?お賽銭が祠の前に置かれてあった。鬼塚から豊前方面の山々を遠望すると求菩提山(鬼の臓体部分はこの山に埋められたという言い伝えも残っている)、経読岳、犬ケ岳がくっきりと見える。遠い昔海岸の潮の満ち引きを眺めながら小学校の遠足で訪ねた際の記憶がかすかに残っている。もうかれこれ半世紀以上も前の事である。